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モナコ公室ゆかりのバラと、今なお愛されるグレース・ケリーのお話

地中海に面した南フランスの海岸線の一画に、世界で2番目に小さな国モナコ公国があります。小さいながら魅力的なこの国のプリンセス、プリンスに捧げられたバラをいくつかご紹介してみたいと思います。花はモナコにとって重要な存在です。そして、花との関わりを語るとき、先の公妃グレース ドゥ モナコ、グレース・ケリーの魅力を語らないわけにはいきません。 1 グレース ドゥ モナコ
2 プリンセス ドゥ モナコ (つるプリンセスドゥモナコ
3 ジュビレ デュ プリンス ドゥ モナコ
4 ステファニー ドゥ モナコ
5 プリンセス シャルレーヌ ドゥ モナコ

1 グレース ドゥ モナコ Grace de Monaco

作出:1956年 作出者: Francis Meilland Peace (hybrid tea, Meilland 1935) × Michèle Meilland

世紀の婚礼に贈られたバラ

輝くようなライトローズピンクの花弁、外弁はより濃くなっています。蕾も赤みが強く、開くにつれ色が変化するのはピースの系統ゆえでしょうか。球状の大輪で香り高い。ツヤのある葉が密に繁り、シーズンを通してよく咲きます。

このバラは、1956年にモナコ公国のレーニエ3世と米国の女優グレース・ケリーの婚礼のために作られました。 作出者はフランシス・メイアン。ナーサリーはモナコからほど近いフランス領 アンティーブにありました。2月、南仏には珍しい大雪で温室が崩れるほどの被害があったにもかかわらずそれを乗り越え、「世紀の結婚式」の4月18日に届けることができたのでした。(1) 公妃となったプリンセス・グレース・ドゥ・モナコはこのバラを、「結婚祝いの贈り物の中で、一番素晴らしいものだわ」と言って喜んだそうです。(2)
1800年代から数々のバラを作出してきたメイアン・ファミリーは、モナコ公室との関係は深く、その後も公室にちなんだ名花を生み出し続けています。

内気な少女の歩んできた道

グレース・パトリシア・ケリーは1929年11月12日、フィラデルフィアの裕福なカトリックの家庭に生まれました。父のジャック・ケリーはオリンピックで2度も金メダルを取るほどのスカル競技の選手であり、その後煉瓦と建築の会社を起こした成功者でした。
アイルランド移民の家系だった反骨精神から、何事も目標を立て勤勉に努力すればかなうという強い信念の持ち主で、4人の子供たちは何事も競争の中で育ちました。家族全員アスリートでした。ただ3番目のグレースは他の活発なきょうだいとは違い、彼女だけが体が弱く内気で一人遊びを好む子供でした。父親は優秀で運動も得意な長女のマギーに、いつも期待を寄せていました。
元水泳選手で体育教師である母マーガレットも厳しく教育熱心で、慈善事業や様々な活動に子供たちを参加させました。グレースは特に演じることに惹かれていきました。その思いは日増しに強くなっていきました。

女優になりたいとついに口にし、高校卒業後、ニューヨークで演劇を学びたいとそう両親に告げた時、大反対にもかかわらずグレースは決して主張を曲げませんでした。子供の頃と違って体はすっかり丈夫になっていました。外見はおとなしく内気なままでしたが、よく知る人は「グレースは自分の望みを自覚しそれを通す意思の強さを持っていた」と言います。もちろん美しく人を惹きつける魅力に溢れていましたし、頭がよくユーモアも持ち合わせていました。しかし時には全く地味に見られることもありました。相反するイメージに目を離せない、この頃からそういうところがあったのではないでしょうか。

ニューヨークでは伯父のジョージ・ケリーの『父』という脚本で一度舞台に立ち、評判になりました。その後カリフォルニアで徐々に映画のキャリアを積み、名監督ヒッチコックとの出会いで『裏窓』はじめ多くの作品に出演し、クール・ビューティー、エレガントで時に情熱的なグレース・ケリーというイメージを打ち立てました。レーニエ公と出会った1955年の3月には、『喝采』でアカデミー主演女優賞を受賞したばかりでした。そこで汚れ役を演じたグレースは、これからさらに女優の道を進んでいこうというところでした。

ですが、女性がキャリアを積んでいくことがまだ珍しかった時代、専属契約を交わしているMGM社とは出演作で折り合わずぎくしゃくし、プライベートでは厳格な父親に結婚を考えた相手を否定され、すべてがうまく行っているわけではなかったようです。 「オスカーを受賞した日、それは私の人生の中で、一番寂しい時間でした。」とグレースは振り返っています。


「あの庭は誰のものなの?」

さて、グレースの子供の頃から花は生活と共にありました。庭には自分用の花壇を持っていましたし、ホーム・ムービーにも、ケリー家の庭にバラが咲き乱れているのが見られます。後に様々な花にまつわる活動を行ったグレース妃は、「花は私に多くの扉を開いてくれました。」と語っています。

1954年にヒッチコックの『泥棒成金』というロマンティック・ミステリーに出演したグレース・ケリーは、南仏にロケに来ていました。見下ろした先に海に突き出た岩山の上に庭園が見えました。時期は美しい初夏、「あの庭は誰のものなの?」と花を愛する女優は尋ねたそうです。 そして、岩山の上の庭園は「グリマルディ家のプリンスのものですよ」と教えられました。
モナコは13世紀にイタリアから来たグリマルディの先祖が岩山の要塞を攻略して領地とし、後にプリンス(小国の君主)を名乗り今に続くヨーロッパ最古の貴族の家系です。岩山は“Le Rocher de Monaco”(モナコの岩)と呼ばれ、大公の宮殿や議会など公の施設があります。

その2年後、グレースはその庭の女主人になることを一体誰が予想したでしょう。

とても素敵な人

アカデミー賞を受賞した2ヶ月後の5月、今度はカンヌ映画祭に参加するためにグレースは再び南仏に行きます。そこで雑誌『パリ・マッチ』のセッティングでモナコ大公と美しきオスカー女優は対談することになります。グレース・ケリーは26歳、レーニエ公は32歳でした。短いながら穏やかな時間を過ごし、好印象を持ちあった二人は、帰国後も手紙で思いを交わします。グレースは父親に認めてもらえる相手、さらに尊敬できる相手を探していましたし、レーニエ公も世嗣ぎをもうけ、君主の立場をサポートしてくれる妃を必要としていました。けれど愛情に基づいたものでなければと考えていましたが、そこに問題は生じませんでした。二人ともすぐに惹かれあったからです。「とてもチャーミングな方でした」グレースは後に出会いについて語りました。

世紀の結婚式

出会いから1年、グレース・ケリーは親戚や友人ら72人を伴い遠洋定期船「コンスティテューション号」はモナコに向かいました。記者たちも同船していたものの、つかの間気の置けない家族や友人に囲まれた8日間の航海でした。モナコの港では多く人々や小船が新しい花嫁を歓迎しようと待ち構えていました。そこにレーニエ公の乗った白いヨット、デオ・ジュバンテ(「神のご加護あらば」の意。モナコ公国のモットー。)Ⅱ号が颯爽と近づいてきました。舳先に立つレーニエに手を振ると答礼してきたので、グレースは嬉しそうに声を立てて笑いました。
小雨の中をはしけが船とヨットをつないだ時、小雨もよいの空が切れて太陽の光が差したといいます。岸に近づくと歓声に混じって汽笛やクラクション、大砲が轟き、オナシスの水上飛行艇からは何千本もの赤と白のカーネーションが降り注ぎました。
結婚式は宮殿内の玉座の間で公的な結婚式をし、翌日サン・ニコラ大聖堂でカトリックに則った結婚式が行われました。MGMの専属デザイナー、ヘレン・ローズが手がけた伝統的でエレガントなデザインのウェディングガウンは、真珠やバラの刺繍入りレースを惜しげもなく使っており、グレースの若さと美しさを最も引き立てていました。そのスタイルは今も憧れとともに、ウェディング雑誌を飾ります。


一番素晴らしい贈り物

グレース妃の新しい肩書きは、モナコ公妃以外にもいくつもありました。デオ・ジュバンテⅡ号をはじめ贈り物は山のようにあったでしょう。その中で、公妃はいつどのように自分の名前のバラ「グレース ドゥ モナコ」と出会ったのでしょう。 グレース妃はのちに出版した唯一の自著「モナコ公国グレース公妃の花の本 ( My Book of Flowers)」にこのように書いています。
「女性にとって、自分の名前を名付けられたバラを持つことは、素晴らしいことです。それに私のバラが、特に素晴らしい人の作った特別なナーサリーで育っている、そう思うとなおさら嬉しいのです。」
グレース公妃のバラへの愛については次の項に続きます。

(1) Souvenirs de la famille Meilland au Cap d’Antibes : 5 – La Principauté de Monaco (外部サイト)
(2) photomazza.com/Rosa-Grace-de-Monaco(外部サイト)

参考書籍: グレース・ケリーの言葉(岡部昭子(著)/PHP文庫) モナコ公国グレース公妃の花の本(グエン ロビンス (著), モナコグレース公妃 (著),木幡和枝(訳)中央公論社) グレース・ケリー プリンセスの素顔(ジェームズ・スパダ(著)、仙名紀(訳)、朝日新聞社)
モナコ王室のバラとグレース公妃

この記事を書いた人

篠宮バラ園 園主

篠宮バラ園 園主

「毎日がバラとのお付き合い」
20歳のころから50年近くバラとともに生活しています。いまだにバラの気持ちを理解しきれていません。
「気まぐれで気位の高い姫と、これからも」園主のひとり言でした。